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聖マクシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者 St. Maximilian Maria Kolbe M.  記念日 8月 14日


 「20世紀の聖人」と言われるマクシミリアノは、生まれた地がポーランドであったために苦しみを体験した。彼は勤勉で敬虔な両親のもとに1894年ツドゥンスカ・ウォラで生まれた。1910年にロワのフランシスコ会修道院の神学校に修練士として入り、ローマで勉強して、1918年には司祭に叙階され、1年後にポーランドに戻っていった。この世の闘争が基本的に霊的なものであるということを確信し、コミュニケーションの現代的手段が反キリスト教の勢力(フリーメーソン)に委ねられるべきではないと考えた彼は「聖母の騎士」という自分の月刊の評論雑誌を出版し始め、それはすぐに成功した。そして1927年にはテレシンに「マリアの町々」の最初のものを創立した。「マリアの町々」とは、ニエポカナヌフ−聖母の町−という名のもとにあり、その心は、常に成長し続けるフランシスコ会の托鉢修道士の快活な服従と聖なる貧困であった。多くの熟練した信徒がそれを完全に独立して経営することが出来るようにした。「聖母の騎士」ばかりでなくローマ・カトリック教会の毎日の新聞や他の出版物を製作する非常に整った印刷所を作ったのである。まもなく、ラジオ局が据え付けられた。
 1930年にコルベ神父と4人の同志は日本に旅行した。そこでは、彼の哲学的また神学的な専門知識によって歓迎され、長崎郊外のある丘の坂の上に「無原罪の園」を設立した(こうしてそれは1945年の原子爆弾による損傷を免れた)。彼は「西洋化」を試みようとはせず、むしろその国の文化を深く理解しようとした。そこで仏教や神道を勉強し、キリスト教的共同体を越えた日本の「聖母の騎士」の読者層によって照明された良好な関係を樹立したのである。
 彼はマラバルとモスクワへさらに旅行して、自分の取り組み方についての同様な共感を得た後、1936年にポーランドに呼び戻された。それは部分的には、常に心配の種であった彼の健康状態によるのもであった。三年後、侵略してきたドイツ軍の部隊がテレシンにあった。短期間の投獄の後、ニエポカラヌフの共同体は、その三分の二がユダヤ人であった三千人の避難民を保護することを含む、あわれみの働きに懸命に取りかかった。コルベ神父は公然と次のように書いた。「世界の中の誰も、真理を変えることはできない・・・。もし我々自身が、我々の最も深い部分である人格的な自己において、善と悪、罪と愛との間の戦いで敗北しているなら、戦場での勝利は一体何の役に立つのだろうか?」
 彼は同じ年の1941年に逮捕されてアウシュビッツ(ポーランドのオシフィエンチム)の収容所に送られた。生存者たちは、彼の並はずれた博愛と、恐ろしい状況にあっても司祭として奉仕していたことを思い起こしている。3人の者が逃亡したことの報復として、囚人たちのうちの10人が地下の餓死室に送られるために選ばれる日が来た。コルベ神父は、家族持ちの一人の男の身代わりになることを自ら申し出た。その申し出は、コルベ神父がそれほど剛健な労働者ではなかったので受け入れられることになった。彼は、自分の仲間達を彼らが死ぬまで慰め、最後に自分もコールタール酸の注入によって殺された。彼は次のように言った、「私は、すべての人間のために、私の命を与える」彼が命を救った男は、1982年聖マクシミリアノ・マリア・コルベ神父の列聖式に参加している。